安芸の宮島で旅館をお探しなら

〒739-0522 広島県廿日市市宮島町もみじ谷 
宮島フェリー港から徒歩15分、駐車場あり

 この夏、館内メンテナンスのため下記期日を休館日とさせていただきます。

 2024年7月9日(火)

 2024年8月29日(木)

 2024年9月10日(火)

 2024年10月1日(火)

 

皆様には大変ご不便をおかけいたしますが何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます。

皆さまのお越しを心よりお待ち申し上げております。

 

気温がぐんぐんと上がる中、「涼」を感じていただこうと思い弊館の掛け軸を衣替えしてみました!!

「水自竹辺流出冷」

*高橋泥舟の掛け軸です。

 高橋泥舟 Wikipedia

皆様この句が読めますでしょうか・・・意味がわかりますでしょうか・・・

解読をするには難しい字で、グーグルのレンズを傾けても読み取ってはくれませんでした。

「水は竹辺より流れ出て冷やかに」

筆者は紅葉谷公園の川沿いを清らかに流れる水をふと思い出しました。

つい先日にもみじ川沿いを歩いたからか、頭の中で繋がったのかもしれません。この詩の情景をもう少し調べていくととても素敵な句であることがわかりました。

夏の茶席に、よく「水自竹辺流出冷」の軸物がかけられているそうです。

青々と茂っている竹ちくはみるからに清く、さわやかな空気を生み出してくれます。水は無色透明で何の区別もつきません。しかし同じ水でもその竹林から流れ出てくる水は、一段と冷ひややかで清冽せいれつなのです。

簡素化して考えると、この句にはこのような意味が込められていると想像できます。

「生まれてくる場所」が違ったら、見た目は同じだったとしても特別なものに見える・・・

そのように汲み取れば良いのでしょうか。

実生活に置き換えて考えてみると

~見た目は同じお好み焼きだったとしても、より一生懸命作ってくれたお好み焼きの方が美味しく感じる~

~見た目は同じ生け花だったとしても、より心を込めて生ける先生の花の方が輝いてみえる~

そんな風に言えると思います。

弊館にでも通じる教えだと思います。

~旅館は沢山あるけれども、お客様にご満足いただくために精一杯頑張る~

玄関の掛け軸や展示物が衣替えをすると、また、気持ちを新たにしてお客様をお招きすることができます。弊館では素敵なお出迎えが出来るように日々精進しています

宮島には「宮島伝統産業会館」という宮島の伝統工芸品が展示されている場所があります。

桟橋のすぐ近くにあるので、宮島をご散策なさるまえにふらりと立ち寄ってもいいかもしれません。

宮島は杓子で有名ですが、ここでは色々な杓子が見ることができます。

今回はこの杓子について掘り下げていきたいと思います。

まずは杓文字と杓子の違いは?

広辞苑には次のように書かれています。
杓子・・・・・飯または汁などの食物をすくいとる道具。頭は小皿のようでこれに柄をつけたもの。
杓文字・・・飯や汁などをすくう道具。特に、飯をよそう道具
つまり、飯をよそうものが杓文字で、飯をよそうだけでなく汁などをすくうのが杓子です。
宮島では、飯をよそう杓文字を杓子と呼んでいます。

そういえば「おたま」のことを「たま杓子」とも言いますよね。杓子はご飯の他にも味噌汁などの汁物にも使用するものなのです。

では、その名前の由来はというと、

室町時代の文献には、「しゃもじ(杓文字)」ではなく「しゃくし(杓子)」と記述がしてあり、「しゃもじ」とは呼ばれていなかったようです。

では、いつから「しゃもじ」と呼ばれるようになったのでしょうか。

「しゃもじ」と呼ばれ始めた由来としては、室町時代の初期に宮中に仕えていた「女房(にょうぼう)」と呼ばれる身分の高い女性の使用人達が関係しています。

その女房達は、彼女達の間だけで通じる「女房詞(にょうぼうことば)」とよばれる専門用語を使用していて、ある時、言葉の一部を「もじ」という言葉に置き換える女房詞が流行したそうです。

この「もじ(文字)」という言葉は接尾語の「文字詞(もじことば)」というものになり、これを付けることで、上品な言葉遣いになるとされ、主に衣・食・住に関するものに用いられていました。

そのため、「しゃくし(杓子)」の「くし」が「もじ」に置き換えられ、「しゃもじ」と呼ばれるようになったと言われています。

他にも、接頭語の「お」のように、言葉の最初に付けることで丁寧さを表す言葉なども女房詞から由来しています。現在でも用いられる言葉であり、「おにぎり」や「おでん」・「おなら」などもこれから由来しています。

「もじ」の他の例としては、「ゆもじ」(浴衣(ゆかた))・「おめもじ」(お目にかかる)・「すもじ」(寿司)・「ひもじい」(ひだるい)などがあります。

この「文字詞」はその後、将軍家に仕える女性に伝わり、次第に武家や町家の女性へ伝わって様々な人に使われるようになったとされています。

宮島で「しゃもじ」が作られるようになったのは、一人の僧侶の提案が由来となって作られたと言われています。

寛政の頃(1800年頃)、宮島の神泉寺の僧・誓真という人が、ある夜、弁財天の夢を見てその琵琶の形の美しい線から杓子を考察し、御山(宮島の弥山の別名)の神木を使って、主な産業がなかった宮島に「厳島弁財天」の持っている琵琶(びわ)と形を似せてそれを宮島参拝のお土産として作ることを島の人々に教えました。
この神木の杓子で御飯をいただけば、ご神徳を蒙り福運をまねくという誓真上人の高徳とともに、宮島杓子の名声は世に広く宣伝されています。

その後、この「宮島杓子(みやじましゃくし)」は、「弁財天の福を招く」と反響を呼び、1894年~1905年の日清戦争や、日露戦争の時代には「敵を召し取る」縁起物として広まっていくこととなりました。岩惣に当時の天皇家や軍部の司令官がお越しになられたのも、そういった戦勝祈願で厳島神社にお越しになられた背景もあるかと思われます。

また、弁財天は学問・豊穣・繁栄・勝負事の女神となっていますので、さまざまな「幸せをめしとる」縁起物として大変人気があり、『勝負運』や『商運』に良いとされ、今や広島カープの応援には欠かせないグッズとなっています。

時代とともに杓子を求めるニーズは変化していますが、宮島の杓子は今日でもお土産品や家庭用品としてお求めになる方が多数いらっしゃいます。

そして杓子を手作りなさる職人さんも残っており、この伝統産業を次世代へとつないでいこうとしています。

何だか聞いたことのある響きだな、とも思ったのですが、わかりました!!!

「猫もしゃくしも」です。

ひょっとしたら、とも思い、インターネットで検索をしてみました。

著者の考えはあたりました。

「しゃくし は猫の手に似ている。忙しいときは猫の手でも借りたくなる。」

よって、この言葉が生まれたそうです。

面白いですよね。

宮島の伝統産業を知ると、また、宮島のことが好きになりました。

もっともっと、この地に長くいたいと思うばかりです。

何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に

この有様になること(死ぬこと)は、生まれたときより定められていたことだ。いまさら何を惜しみ、恨むことがあろうか。

陶晴賢の歌

 

こちらの歌は皆様がご存じの通り、日本三大奇襲のひとつ「厳島の戦い」で陶晴賢が詠んだ歌になります。

岩惣には「楓泉」という建物があるのですが(以前はお茶屋として営業していましたが、現在は休業しています)

 

楓泉からの本館の眺め

 

そちらに「厳島の戦い」を説明したパネルが展示してあります。

こちらのパネルが美しかったため、あまり歴史に詳しくない筆者ですが「知りたい!」と思うようになりました。

こんな歴史音痴の筆者ですが、大雑把にいうと

陶軍 対 毛利軍!!

陶軍の兵力が20,000に対して、毛利軍が4,000。

圧倒的に毛利軍が不利な状況だったけれども、思い付いた作戦は情報操作による陶軍の戦力ダウンと奇襲戦を考えました。

毛利元就が考えたのは宮島(厳島)での奇襲攻撃です。「兵多きが勝つ」が戦いの常識ですが、この戦力差を覆すには、大軍のメリットをなくし、少ない兵力を集中させる必要がありました。

このため、大軍だと身動きが取りにくい宮島(厳島)で、一斉攻撃をするしかないと考えたのです。また、宮島(厳島)の周りは海に囲まれていたため、援軍が来ないことも有利になるとに狙ったのです。

毛利元就は陶軍を宮島(厳島)におびき寄せるため、陶晴賢を挑発します。

1555年、500艘の大船団を組んで厳島(宮島)に渡った陶軍は、「塔の岡」(現在の五重塔の辺り)に本陣を置き、20,000の大軍で宮尾城を囲み攻撃を開始します。

※宮尾城は宮島にあった城です

一方、宮尾城の兵は、わずか500。攻撃開始からわずか数日で、たちまち窮地に陥ります。これに対し、毛利元就は、瀬戸内海の有力者であった仲間に援護を要請しました。

毛利元就の賢い戦略によって誰も予測をしなかった圧勝を収めます。

陶軍20,000の敵に対し、毛利軍4,000。

圧倒的に不利な戦いだったのにも関わらず、大勝利とは凄いことだと思いませんか?

なお、厳島の戦いのあと、策略とは言え、厳かな厳島(宮島)を汚した毛利元就は、社殿や回廊を洗い、板を取り替えた他、厳島(宮島)の表面にある土を削って海に流すことで、戦で流れた血の臭いを消す作業を行なったと言われています。

この厳島の戦いをきっかけに、毛利元就は国内最大の戦国大名にのし上がっていくこととなりました。

 

何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に

この有様になること(死ぬこと)は、生まれたときより定められていたことだ。いまさら何を惜しみ、恨むことがあろうか。

陶晴賢の歌

毛利に敗北し、自刀するときの歌だと言われています。

今は毎日が穏やかな宮島ですが、約470年前には壮絶な戦いがあったのですね・・・・!!

日本三大奇襲のひとつを学んだので、他の二つも知りたくなりました。

こうやって歴史の深さも感じさせてくれるのが、安芸の宮島、なのです。

ぜひ、厳島の戦いのパネルをご覧にいらしてください。

幕末・明治を駆け抜けた皇族、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひと)

天皇家系図

波乱万丈な人生

1835年、京都で生まれ、幼い頃から武芸や学問に秀でた熾仁親王。尊王攘夷運動に熱中し、国事御用掛として活躍しますが、禁門の変で失脚を経験します。しかし、王政復古後は新政府のトップとなり、東征軍の司令官として江戸城の無血開城を実現。明治天皇の信頼を得て、日本の近代国家建設に大きく貢献しました。

多才な才能

政治家、軍人としての活躍だけでなく、書道に精通し、「有栖川流」と呼ばれる独自の流派を確立するなど、文化人としても多才な才能を発揮しました。西洋文化にも興味を持ち、積極的に学んだ姿は、現代にも通じる知的好奇心を示しています。

明治天皇と共に歩んだ激動の時代

薩長同盟締結、陸軍卿時代における徴兵制度導入、参謀総長時代の日清戦争勝利など、明治天皇と共に歩んだ激動の時代を支えた立役者です。

國學院大学との関係

有栖川宮熾仁親王は、國學院大学の前身である皇典講究所の初代総裁を務めました。皇典講究所の設立は、日本の国学の発展に大きく貢献しました。

熾仁親王ゆかりの地

 

  • 京都御所:幼少期を過ごした場所
  • 二条城:禁門の変で戦った場所
  • 上野恩賜公園:彰義隊との戦いで勝利した場所
  • 靖国神社:明治天皇と共に参拝した場所
  • 旧陸軍士官学校:陸軍卿として教育改革を行った場所
  • 有栖川宮記念公園:晩年を過ごした場所
  • 國學院大学:初代総裁を務めた場所 


熾仁親王と和宮親子内親王の関係

徳川将軍第14代徳川家茂と結婚した和宮親子内親王は、徳川幕府の権力失墜に伴い、公武合体を余儀なくされた幕府が公武合体を国内外に誇示するための実績として降嫁され、悲劇のヒロインとして幕末の色々な場面でとりあげられていますが、実はこの和宮親子内親王は、わずか5歳で有栖川宮熾仁親王殿下と婚約を済ませていたのであります。1851年、殿下がまだ16歳の時の出来事です。

その後熾仁親王殿下は水戸藩出身15代将軍徳川慶喜の異母妹徳川貞子と結婚されることとなります。

熾仁親王と宮島の関係

1875年、厳島神社の第8代目の大鳥居建立にあたり、有栖川宮熾仁親王殿下御神筆の額ありと資料に残っています。近年ではこの8代目が9代目ではないかという説が出てきており、これが主流となっております。現存の大鳥居は途中何回かの修繕工事を行っておりますが、148年前に建てられた大鳥居がそのまま残っております。

岩惣の宿泊名簿に出てくるのは明治23年(1890年)、西南戦争より13年後になりますが、異母弟の有栖川宮威仁親王殿下が明治17年(1884年)、先に宿泊されている記録が残っております。

岩惣にお泊りになるにはそれなりの理由があるわけで、それを一つ一つ解き明かしていくのも面白いと思います。当時の面影を感じながら、熾仁親王殿下の足跡をお楽しみください。