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〒739-0522 広島県廿日市市宮島町もみじ谷 
宮島フェリー港から徒歩15分、駐車場あり

幕末・明治を駆け抜けた皇族、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひと)

天皇家系図

波乱万丈な人生

1835年、京都で生まれ、幼い頃から武芸や学問に秀でた熾仁親王。尊王攘夷運動に熱中し、国事御用掛として活躍しますが、禁門の変で失脚を経験します。しかし、王政復古後は新政府のトップとなり、東征軍の司令官として江戸城の無血開城を実現。明治天皇の信頼を得て、日本の近代国家建設に大きく貢献しました。

多才な才能

政治家、軍人としての活躍だけでなく、書道に精通し、「有栖川流」と呼ばれる独自の流派を確立するなど、文化人としても多才な才能を発揮しました。西洋文化にも興味を持ち、積極的に学んだ姿は、現代にも通じる知的好奇心を示しています。

明治天皇と共に歩んだ激動の時代

薩長同盟締結、陸軍卿時代における徴兵制度導入、参謀総長時代の日清戦争勝利など、明治天皇と共に歩んだ激動の時代を支えた立役者です。

國學院大学との関係

有栖川宮熾仁親王は、國學院大学の前身である皇典講究所の初代総裁を務めました。皇典講究所の設立は、日本の国学の発展に大きく貢献しました。

熾仁親王ゆかりの地

 

  • 京都御所:幼少期を過ごした場所
  • 二条城:禁門の変で戦った場所
  • 上野恩賜公園:彰義隊との戦いで勝利した場所
  • 靖国神社:明治天皇と共に参拝した場所
  • 旧陸軍士官学校:陸軍卿として教育改革を行った場所
  • 有栖川宮記念公園:晩年を過ごした場所
  • 國學院大学:初代総裁を務めた場所 


熾仁親王と和宮親子内親王の関係

徳川将軍第14代徳川家茂と結婚した和宮親子内親王は、徳川幕府の権力失墜に伴い、公武合体を余儀なくされた幕府が公武合体を国内外に誇示するための実績として降嫁され、悲劇のヒロインとして幕末の色々な場面でとりあげられていますが、実はこの和宮親子内親王は、わずか5歳で有栖川宮熾仁親王殿下と婚約を済ませていたのであります。1851年、殿下がまだ16歳の時の出来事です。

その後熾仁親王殿下は水戸藩出身15代将軍徳川慶喜の異母妹徳川貞子と結婚されることとなります。

熾仁親王と宮島の関係

1875年、厳島神社の第8代目の大鳥居建立にあたり、有栖川宮熾仁親王殿下御神筆の額ありと資料に残っています。近年ではこの8代目が9代目ではないかという説が出てきており、これが主流となっております。現存の大鳥居は途中何回かの修繕工事を行っておりますが、148年前に建てられた大鳥居がそのまま残っております。

岩惣の宿泊名簿に出てくるのは明治23年(1890年)、西南戦争より13年後になりますが、異母弟の有栖川宮威仁親王殿下が明治17年(1884年)、先に宿泊されている記録が残っております。

岩惣にお泊りになるにはそれなりの理由があるわけで、それを一つ一つ解き明かしていくのも面白いと思います。当時の面影を感じながら、熾仁親王殿下の足跡をお楽しみください。