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〒739-0522 広島県廿日市市宮島町南町345-1 
宮島フェリー港から徒歩15分、駐車場あり

陶晴賢の謀反

弘治元年10月1日(西暦1555年)、毛利元就と陶晴賢の両軍が35,000の大軍をあげて戦ったのが日本三大義戦のひとつとして有名な厳島合戦であります。

その話というのは、朝鮮の琳聖太子の流れをくむ大内氏が山口市外の大内村に住み、支那との交易により巨万の富を作りました。ある日、観世太夫をまねいて猿楽に興じている時、にわかに起った陶晴賢の謀叛により大内の館は大混乱になりました。

義隆の最期

大内義隆は数十人の部下に護られて、秋吉から長門の仙崎にのがれ、舟で石見に逃げのびようとしましたが、暴風にて舟が進まず、義隆は大内の亡びる時が来たと、深川の大寧寺に逃れて、和尚の戒をうけ45才で自刃しました。

11代の永きに亘って栄えた大内家もここに滅亡したのであります。

 

元就の急使 京都より帰る

天文22年(西暦1553年)、吉田(広島県)の城主、毛利元就は、小早川隆景を使者として、京都(みやこ)に派遣し、逆臣陶晴賢を討伐する勅命を受け、使者は急いで帰っていく路であります。

元就 敵のスパイを欺く

吉田の城中で元就は、わずかの兵で陶の大軍を破るには、野戦では不利なので、宮島に引き寄せんと、有の浦の宮の尾に小城を築き、己斐豊後守に数百の兵を与えてこれを守らせました。

ある夜、城中に招いていた琵琶法師が陶のスパイである事を見ぬいた元就は敵を欺くため、「宮島に城を築いた事は、失策であった。もし、陶の大軍に包囲されたなら、我軍の勝利は望めない。」ともらしたのであります。

陶晴賢の上陸

陶晴賢は元就の策略にのり、20,000の大軍を500余の舟に分乗させ、岩国の今津から宮島へ進航して上陸し、塔の岡へ本陣をかまえました。

四面の民家に火を放ちて威を示し、海上には戦艦が並び大いに気勢を上げました。

 

元就の出陣

毛利元就は、我策略が図に当った事を喜び、3,000の兵を率いて対岸の地御前に陣を進め、夜、折からの暴風雨を冐して、荒れ狂う怒涛の中に出発しました。先頭の明りは、元就座乗の指揮船であります。

一方、小早川隆景の分乗した一隊は敵の正面大鳥居方面へ堂々と乗り入れ、怪しむ敵に『これは、筑前の宗像秋月の船で、御味方にまいったものです。』と、塔の岡の正面に向かいました。

 

元就が堤ヶ浦に上陸

元就の率いる本隊は暴風雨の海を乗り切って宮島の東北岸に上陸しました。

元就は部下に「ここは何という所か」と問うと、「浦は包ヶ浦、屋根は博奕尾と申します。」との答えに、元就は鼓も打つもの、ばくちも打つもの、いよいよ敵に打勝つときが来たと大いに喜び、味方の合言葉を「打」、「勝」ときめて、敵の本陣、塔の岡の背後へ兵を進めました。

厳島神社 裏の戦い

陶の本陣は総くずれとなり、神社裏へなだれをうって敗走、晴賢は大元へ逃げ、敵将弘中は、吉川元春の軍に敗れて滝町一帯に火を放ち、大聖院へ逃げ去ったのであります。

元春は社殿に火のかからぬ様、部下に命じて、消火につとめました。

大聖院をのがれた敵軍は、吉川元春のために奥へ追い込まれて、ついに彌山の山頂駒ヶ林の断涯に追いつめられ、大激戦となりましたが、この戦で敵の大部分が戦死し、弘中父子と残兵は龍ヶ馬場のけわしい岩陰に退却したのであります。

陶晴賢の最期

晴賢軍は前後に敵を受け、戦いの力もつきて大元から海岸づたいに逃れて、大江浦に出ましたが、舟は一せきもなく、部下に助けられながら山越をして、青海苔浦に出ましたが、ここにもすでに舟はなく、最早これまでと、高安が原に引き返し、谷川の水をくんで名残の宴を開き、山崎勘解由ひとさし舞い、晴賢も腰の刀をぬいてかざし、声高らかに舞い納めて、伊香賀房勝の介錯によって自刃しました。房勝もまた、山崎勘解由とともに、それぞれ自刃し、晴賢のあとを追ったのであります。

毛利元就、陶晴賢両軍の厳島合戦はこれをもって終わりました。

結び

陶晴賢は、「何を惜しみ何を恨みんもとよりもこのありさまの定まれる身に」という辞世の歌を残して自刃して果てました。

厳島をゆり動かした合戦も10月1日早暁に始まって同日午後2時ごろには大体終末を告げ、厳島合戦の幕はおろされました。
晴賢、時に35才、その首級は従者の手によって岩の間にかくされていましたが、数日後、毛利軍に発見され、対岸、廿日市の洞雲寺に埋葬、ここに石塔も立てて、ねんごろに供養されました。
この合戦を契機に、毛利氏の中国地方における地位は、にわかに高まるとともに、同民の厳島神社に対する信仰も日増しにあつくなって参りました。

さて、元就はこの戦いで神域を汚したことは厳島神社に対し、まことにおそれ多いと考え、両軍の戦死者、負傷者をいち早く対岸へ移し、流血で汚れた土砂はすべて削り取って海中に投じ、血で汚れた回廊の一部は板をあたらしく取りかえました。其の他は海水で洗って清め、戦前の姿にもどしました。