10、結び
陶晴賢は、「何を惜しみ何を恨みんもとよりもこのありさまの定まれる身に」という辞世の歌を残して自刃して果てました。厳島をゆり動かした合戦も10月1日早暁に始まって同日午後2時ごろには大体終末を告げ、厳島合戦の幕はおろされました。晴賢、時に35才、その首級は従者の手によって岩の間にかくされていましたが、数日後、毛利軍に発見され、対岸、廿日市の洞雲寺に埋葬、ここに石塔も立てて、ねんごろに供養されました。
この合戦を契機に、毛利氏の中国地方における地位は、にわかに高まるとともに、同民の厳島神社に対する信仰も日増しにあつくなって参りました。
さて、元就はこの戦いで神域を汚したことは厳島神社に対し、まことにおそれ多いと考え、両軍の戦死者、負傷者をいち早く対岸へ移し、流血で汚れた土砂はすべて削り取って海中に投じ、血で汚れた回廊の一部は板をあたらしく取りかえました。其の他は海水で洗って清め、戦前の洗浄にもどしました。
|
|
 |