世界遺産・日本三景 安芸の宮島 旅館[岩惣/IWASO]

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歴史 もみじ谷と岩惣 岩惣ご宿泊記録 毛利元就の厳島合戦
厳島合戦
第1章
第2章
7、元就が鼓が浦に上陸
元就の率いる本隊は暴風雨の海を乗り切って宮島の東北岸に上陸しました。元就は部下に「ここは何という所か」と問うと、「浦は鼓が浦、屋根は博奕尾と申します。」との答えに、元就は鼓も打つもの、ばくちも打つもの、いよいよ敵に打勝つときが来たと大いに喜び、味方の合言葉を「打」、「勝」ときめて、敵の本陣、塔の岡の背後へ兵を進めました。
8、厳島神社裏の戦
陶の本陣は総くずれとなり、神社裏へなだれをうって敗走、晴賢は大元へ逃げ、敵将弘中は、吉川元春の軍に敗れて滝町一帯に火を放ち、大聖院へ逃げ去ったのであります。元春は社殿に火のかからぬ様、部下に命じて、消火につとめました。大聖院をのがれた敵軍は、吉川元春のために奥へ追い込まれて、ついに彌山の山頂駒ヶ林の断涯に追いつめられ、大激戦となりましたが、この戦で敵の大部分が戦死し、弘中父子と残兵は龍ヶ馬場のけわしい岩陰に退却したのであります。
9、陶晴賢の最期
晴賢軍は前後に敵を受け、戦いの力もつきて大元から海岸づたいに逃れて、大江浦に出ましたが、舟は一せきもなく、部下に助けられながら山越をして、青海苔浦に出ましたが、ここにもすでに舟はなく、最早これまでと、高安が原に引き返し、谷川の水をくんで名残の宴を開き、山崎勘解由ひとさし舞い、晴賢も腰の刀をぬいてかざし、声高らかに舞い納めて、伊香賀房勝の介錯によって自刃しました。房勝もまた、山崎勘解由とともに、それぞれ自刃し、晴賢のあとを追ったのであります。毛利元就、陶晴賢両軍の厳島合戦はこれをもって終わりました。
10、結び
陶晴賢は、「何を惜しみ何を恨みんもとよりもこのありさまの定まれる身に」という辞世の歌を残して自刃して果てました。厳島をゆり動かした合戦も10月1日早暁に始まって同日午後2時ごろには大体終末を告げ、厳島合戦の幕はおろされました。晴賢、時に35才、その首級は従者の手によって岩の間にかくされていましたが、数日後、毛利軍に発見され、対岸、廿日市の洞雲寺に埋葬、ここに石塔も立てて、ねんごろに供養されました。
この合戦を契機に、毛利氏の中国地方における地位は、にわかに高まるとともに、同民の厳島神社に対する信仰も日増しにあつくなって参りました。
さて、元就はこの戦いで神域を汚したことは厳島神社に対し、まことにおそれ多いと考え、両軍の戦死者、負傷者をいち早く対岸へ移し、流血で汚れた土砂はすべて削り取って海中に投じ、血で汚れた回廊の一部は板をあたらしく取りかえました。其の他は海水で洗って清め、戦前の洗浄にもどしました。
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