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1、陶晴賢の謀叛
弘治元年10月1日(西暦1555年)、毛利元就と陶晴賢の両軍が35,000の大軍をあげて戦ったのが日本三大義戦のひとつとして有名な厳島合戦であります。その話というのは、朝鮮の琳聖太子の流れをくむ大内氏が山口市外の大内村に住み、支那との交易により巨万の富を作りました。ある日、観世太夫をまねいて猿楽に興じている時、にわかに起った陶晴賢の謀叛により大内の館は大混乱になりました。
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2、義隆の最期
義隆は数十人の部下に護られて、秋吉から長門の仙崎にのがれ、舟で石見に逃げのびようとしましたが、暴風にて舟が進まず、義隆は大内の亡びる時が来たと、深川の大寧寺に逃れて、和尚の戒をうけ45才で自刃しました。11代の永きに亘って栄えた大内家もここに滅亡したのであります。
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3、元就の急使・京都より帰る
天文22年(西暦1553年)、吉田(広島県)の城主、毛利元就は、小早川隆景を使者として、京都(みやこ)に派遣し、逆臣陶晴賢を討伐する勅命を受け、使者は急いで帰っていく路であります。
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4、元就敵のスパイを欺く
吉田の城中で元就は、わずかの兵で陶の大軍を破るには、野戦では不利なので、宮島に引き寄せんと、有の浦の宮の尾に小城を築き、己斐豊後守に数百の兵を与えてこれを守らせました。ある夜、城中に招いていた琵琶法師が陶のスパイである事を見ぬいた元就は敵を欺くため、「宮島に城を築いた事は、失策であった。もし、陶の大軍に包囲されたなら、我軍の勝利は望めない。」ともらしたのであります。
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5、陶晴賢の上陸
陶晴賢は元就の策略にのり、20,000の大軍を500余の舟に分乗させ、岩国の今津から宮島へ進航して上陸し、塔の岡へ本陣をかまえました。四面の民家に火を放ちて威を示し、海上には戦艦が並び大いに気勢を上げました。
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6、元就の出陣
毛利元就は、我策略が図に当った事を喜び、3,000の兵を率いて対岸の地御前に陣を進め、夜、折からの暴風雨を冐して、荒れ狂う怒涛の中に出発しました。先頭の明りは、元就座乗の指揮船であります。一方、小早川隆景の分乗した一隊は敵の正面大鳥居方面へ堂々と乗り入れ、怪しむ敵に『これは、筑前の宗像秋月の船で、御味方にまいったものです。』と、塔の岡の正面に向かいました。
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